石原日出男(故人)
「萬花」

 我が国のロクロ技術が生んだこけし人形には、伝統性に基調をおく「伝統こけし」と、創造性に基調をおく「創作こけし」の二つがあります。

 「伝統こけし」は江戸時代後期に発生した東北地方特産の民芸であり、発生地域により鳴子系、土湯系などと呼ばれ、夫々特有の形態や模様をもち、制作技法は師弟間に伝承されて今日に及んでおります。これに対し「創作こけし」は作者個人の自由な発想により造形され、独自の技法を用いて制作されており、第二次大戦後の昭和22、23年頃、平和の使者の如く時流に乗って成長した工芸品です。
 昭和29年より創作こけしコンクールの最優秀作品に対し、内閣総理大臣賞が授与されるようになり、以来40年、多くの作者たちの研鑚努力により創作活動も活発化し、彫りこみ、焼き込み等の技法を織り込んだ「創作こけし」特有の人形美はロクロ芸術として注目され、著名作家の逸品はユニークな美術工芸品として評価されるに至っております。

 

■こけしの歴史

「こけし」を生み出す木工ロクロを日本の歴史にたどってみれば、弥生時代の遺跡からもロクロ挽きの円形木器が出土しています。又、法隆寺に伝えられている陀羅尼経を納める百万小塔と呼ばれる高さ21センチ、基部径役11センチの塔はきわめて高度な技能の所産であり、仏教伝来とともに古代朝鮮半島からの技能者集団が重要な役割を果たしていたことが伺われます。

近世には、良質の原木を求め森林地帯を渡り歩いて木地挽きに従事する木地師と呼ばれる職能集団が徳川時代の初期に現れ、広葉樹材を求め広域に拡大し明治には全国的に分布するようになりました。この木地集団は、文徳天皇の第一皇子惟喬親王を業祖と仰ぐ伝承を持ち、出自の地を滋賀県の君が畑、蛭谷の村々としています。

こうした長い歴史をもつ木地師たちの仏具や生活用具生産の暮らしの中から、親が子に、あるいは子を持つ親に、求められ自然に生まれた人形があったのではないかと考えると、その流れの末にあるこけしの持つ温もりにうなずけるのではないでしょうか。

独楽やからくりものの人形など木地玩具は全国の土地に見ることができますが。では、「こけし」と呼ばれる人形のふるさとはどこかというと、それぞれの土地特有の形や模様を代々受け継ぐ伝統こけしを伝える東北地方といわれています。どのようにして生まれたか確実なことはわかっていないのですが、その発達は江戸の末から明治時代の東北地方の温泉地の開発と、湯治場の発達に関連していると考えられています。

土産物として各湯治場で売られていたこけしは、大正時代に郷土玩具収集が流行しはじめると収集家の心をつかみ、工人と収集家との研鑽で今日の鑑賞玩具としての伝統こけしとして続いています。東北地方にも近代こけし、創作こけしに携わる人たちがいます。伝統の中から先駆的な新しいこけしを生み出した作家たちです。

又、古くから箱根細工と呼ばれる木地玩具の生産地である箱根、小田原にもこけしを見ることができますし、群馬には挽き物として江戸挽き物の流れをくみ、ロクロ挽きの人形として伝統こけしを母体とした近代こけしが発展し、現在ではより創造的な創作こけしに携わる作家が多く存在しています。

「こけし」はこうして、各地で発展してきましたが、昭和二十九年に、JAF(日本農村工芸作家協会)主催の第一回全国こけし人形コンクールが開催され、昭和五十二年より、日本こけし工芸会主催、全国近代こけし展として現在に至っています。昭和三十三年には、宮城県及び白石市主催の第一回全日本こけしコンクール開催、現在に至り。昭和三十四年、群馬県及び前橋市主催の第一回全群馬近代こけしコンクール開催、現在に至っています。

このように技術、品質の向上と美術工芸品としてのこけしを目指してコンクールが相次いで開催されて伝統こけし、近代こけし、商業こけし、木地玩具の発展と研鑽を支え、促してきました。創作こけしは、上記の近代こけしにたずさわってきた作家たちが作者の個性と内面を新しい表現技術でより豊かに表現した美術工芸としての世界を形成しています。

「こけし」という名を持つ人形である以上、制作過程にロクロ、又は旋盤を使用するという制約はありますが、その制約を抽象美として表現するところに創作こけしの人形としての独自性があるのです。

【参考資料及び文献】

「ろくろ挽き物技法」中村源一著
「物と人間の文化史31 ろくろ」橋本鉄男著
「伝統こけしガイド」土橋慶三監修
「こけし その伝統と創作」山中登著